●長い長い幸福な日々

森茉莉が観潮楼でパッパと暮らした16年は、長い長い幸福な日々だった。
パッパ。そう呼ぶだけで微笑みに崩れる父・鴎外。
パッパ。そう呼んで背中に飛びつくと、「まて、まて」と言って、
葉巻や筆をおいてこちらに向き直る父・鴎外。
その膝に乗り、パッパの愛情の薫りの中で過ごした幼い日々。
長い長い幸福な日々。

●長い長い幸福な日々

長い長い幸福な日々

森茉莉は、明治36年1月7日、旧本郷区駒込千駄木町(団子坂上)に、森鴎外(森林太郎)、志けの長女として生まれた。
幼い日々を過ごした森家の屋敷は、見晴らしがよく、品川の海がかすかに見えることもあることから「観潮楼」と命名されていた。ここで森茉莉は両親から大きな大きな愛情を受けて育つ。大好きなパッパと美しい母と過ごした幸福な日々のことは「幼い日々」に詳しいが、嫁ぐまでの16年間は、長い長い幸福な時代だったようである。
初めての女の子ということで特別待遇を受けていた茉莉は、洗面の湯は女中が運び、学校への往復は車、帰ってくるとフランス語とピアノの家庭教師が来ている・・・というお超嬢様生活。学校では優等生で、級長もしていたというが、「真直ぐ」ということが苦手の茉莉は、真直ぐに歩けと言われると蛇のように蛇行し、右へ進めの号令がかかると左に曲がったりするようなところがあり、ぼんやりの茉莉さんと呼ばれていたようである。
1919年(大正8年)3月、仏英和女学校を卒業した茉莉は、その年の11月、帝大出の学者志望の青年、山田環樹と結婚(森茉莉16歳)。婚約時代の山田環樹は、真珠をプレゼントし、「茉莉ちゃんの掌の上で転がしていてもらいたいな」というようなキザなところのある青年だったようである。山田家に嫁ぐときに、父・鴎外は「お茉莉が毎日西洋料理をくうだろう」と言って笑ったという。
結婚の翌年に長男・ジャクが生まれる。
仏文学研究のために夫が渡欧した一年後の1922年(大正11年)、茉莉も渡欧し、巴里のカルチェラタンにあるホテル、ジャンヌ・ダルクで夫と共に暮らす。このあ巴里での日々は「記憶の絵」に詳しく、毛虫が蝶になるごとく、パリジェンヌに孵化して、巴里での生活を楽しむ様子が歓びに満ちた筆で語られている。
巴里で人生を、人生の歓びを知ったと書いているが、このとき森茉莉は19歳。若く美しいマダムとして巴里と出会い、巴里に恋したのだった。美を愛する感性を持った森茉莉は、乾いたスポンジが水を吸収するように、巴里のすべてを吸収したのではないだろうか。
1923年(大正12年)にフランスより帰国後、目白に暮らし、ここで次男・亨が生まれる。その後、駒込の大和村と称する分譲地に家を新築し、移転する。開放的な赤い家で暮らす一家は、表面上は馬鹿げた位に明るかったが、大和村に家を構えてからは、どうすることもできない憂鬱がそこに頭をもたげ、それは壊れかけたピアノのごとく危ういものだった。そして、結局、森茉莉は一人で考え、一人で家を出たのだった。

●森茉莉の夢

森茉莉の夢

その後、実家に戻るが、山田家から荷物が帰ってくるという日、母親から「今日だけは笑わないでおくれ」と懇願されていたにもかかわらず、何か面白いことがあったのだろう「ウワッ、ハッ、ハッ」と笑って、それを耳にした植木屋は、驚きのために白目が飛び出していたという。森茉莉はどんなことがあっても「卑屈になれないたち」なのだ。
3年後の27歳の時、東北帝大医学部教授の佐藤彰と結婚。夫となった人には先妻の遺児である二人の娘がいた。仙台からは二人の娘のこと、町の様子などを綴った母親宛ての手紙がよく届いたという。森茉莉は家庭生活を営みながら翻訳を手がけるが、この結婚はわずか7、8ヶ月で破れている。理由は、「茉莉の散歩」にあった。毎日の市中見物を禁止された茉莉の言う「仙台には銀座がない、三越がない」という不平から起こったことのようである。エッセイの中にも『私は東京が好きだった」と書いている茉莉である。東京に生まれ、東京を愛していた茉莉に地方暮らしは無理だったのだろう。
再び実家に帰ってからは、与謝野鉄幹、晶子夫妻の『冬柏』に随筆や翻訳を発表したり、演芸雑誌に劇評を書いたりしている。この頃にはもう「書く」ことに方向を定め、長い随筆や小説を書いてみたいという夢を持っていたようである。
だが、二度の離婚後の数年間は、森茉莉にとっては精神的に辛く苦しい暗黒時代だったようである。「私の離婚とその後の日々」によると、それは「「世間」といふものと全く縁がない、汚らはしい噂の灼印を押された人間として、生きるより、なかった。私は世間の外で生きてた」というような日々ではあったが、曇って暗い日があってもやがて晴れるだろうと思って暮らし、或る日私のいるこの暗い世界は明るいものになるだろうと、悲哀の中に咲く薔薇を見出せるところに、私は大きな愛情にくるまれて育った人の素直さを発見し、森茉莉という人がますます好きになる。